コッチョの言いたいこと置場

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功利主義の落とし穴

またさらに掘り下げます。問題にはまた問題がつきものなんですよ。


前回は「個人主義」と「幸福の最大化の原理」という二つの原理が喧嘩したため、個人主義の力を強調し、「みんなの幸福の最大化」が実現できるようになりました。
これにより、原理の衝突から逃れられる…安心するもつかの間。


なんと、個人主義でいじめなどの行為を悪と決定付けることによって、それを止めようとする行為も悪と位置付けられてしまうのです。
それは何故なのか。


いじめを止めようとすることにより、いじめをストレスの捌け口としている人の矛先が止めようとする人に向いてしまうリスクももちろんあるわけです。
もしそうなってしまった場合、また新たに精神的または身体的な苦痛がもたらされてしまいます。そういう話、よく聞きますよね。


それは結局、いじめられている人を助けようとする行為そのものが「少数の犠牲」となるため、いかなる場合でも身体・心理的快楽を減少させる行為を切り捨てるべきとされる個人主義では「行うべきではない」とされてしまうのです。


いやはや、深い。
前は「哲学なんて悩むことしか能がない人が考えるよくわからないものだ」と思っていましたが、長い目で見れば何千年と前から研ぎ澄まされてきた人類の糧なんですね。
現在の民主主義の基盤ともなっており、わたしたちの倫理観やちょっとした考えにも哲学は織り込まれている。
哲学は、何かを決定付けるために必要とされる情報なんじゃないかって思っちゃいますね。