コッチョの言いたいこと置場

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功利主義を掘り下げる

前の記事で功利主義の話をしましたが、もうちょい掘り下げようと思います。


功利主義とは、道徳的な善悪の判断は行為のもたらす結果が有用かどうかによって決められると考える論理思想のことを指す概念。
そして功利主義における功利とは一義的に、苦痛を避け人間の身体に対して快感をもたらすものを求めるという身体的快楽に基づく概念とされている。
と、前回言いましたね。


そんな功利主義も「行為功利主義」と「規則功利主義」に分かれます。
彼らは利益を得るための原理の対象が違うわけです。


前者は「何をすれば利益があるか」を基準にし、後者は「みんなが何のルールに従えば利益があるか」を基準にする。
一文無しの子供が盗みを働いたと仮定しましょう。この場合、前者は「子供が助かるから良し」とし、後者は「ルールがガバ過ぎて窃盗が横行するんでダメ」となるのです。


さらに言えば量的功利主義と質的功利主義にも分けられ、彼らは幸福に求めるものがそれぞれ違います。あんま関係ないんで省きますが。


それで本題なんですけども。
功利主義の考えることって、いかにも単純明晰でわかりやすく、理にかなってますよね。
でも一つ大きな穴がありまして。いじめや迫害による少数の苦痛によって大勢の快楽が得られるとした場合、正当化されるのではないか?って思われていたんですよ。


1対1で被害者の方の苦痛が大きかった場合、それは成立しません。
こればかりは、功利主義だとしても悪しき行為として認識されます。


では、1人を殴って10人が喜ぶのなら?
被害者の1人の苦痛には限界があれど、加害者10人の多幸感はその倍を上回る。
これでは「幸福を得る行為が善」とされている功利主義では正当化されてしまうことが考えられるのです。


こういった事象に対し、功利主義の中でどのような打開策が考えられているのでしょう?
ベンサムの考え方は細かくわけると二つ。「個人の幸福」と「幸福の最大化」です。
一人一人の幸福=社会の幸福なのですから、社会の幸福の総数を獲得するために幸せでない人がいて良いハズがありません。


「最大多数の最大幸福」と言えども、これは一人一人の幸せが最大化されていること前提で考えられている。
一人を貶めて多数が幸福を得る行為は、功利主義が重きを置いている個人主義と大きく的を外れてしまってるんですよ。
つまりこれは原理に反しているので、否定することができるのです。


倫理的なこともしっかり考えているんですね。


それでも、一つ穴が空くとまた穴が空いてしまうのと同様…これにより新たな問題が生じてしまいます。
「個人主義」と、個人の集まりである社会の幸福最大化を願う「幸福の最大化の原理」、この二つの原理が殴り合うことになるわけです。


個人主義「一人を貶めて幸せを獲得すんのは個人主義に反するで!!」
幸福の最大化の原理「いやその行為を否定する時点で幸福の最大化の原理に反するんで」


…ってことになっちゃいます。また新たな矛盾が生じてしまってますね。


この二つの原理の力関係が同等だとしたらこの先もずっと殴り合ってしまうので、個々の幸福を最大化するならば、「個人主義」の力を強調せねばなりません。


こうすることにより「優先すべき事項」が明らかになり、このジレンマは解消されることとなるのです。
いやぁ、権力って偉大ですね。もはや義務論やん。